「……僕では、あなたを守りきれないかもしれません」


吐き出すように、そう告げました。
僕が今立ち向かおうとしているのは、其れまで自分と活動を共にしてきたメンバー達なのです。
彼らがどれだけ人ならざる内面を持ち合わせているか、どれだけ嗜虐的で、どんな手段を使って相手を陥れていくのかを僕は知っています。
その彼らを、この世界の僕一人で敵に回すのは無謀な事と言えたでしょう。それでも、


「それでも、僕はさんに生きていてほしいんです。お願いです、約束してくださいさん。例え僕に何があっても、貴方は逃げて、生き延びてくれると――」
「荒井くん」


やや強めの語気が、僕を遮りました。
続ける筈だった言葉を呑み込みます。僕は一瞬、顔を伏せてしまいそうになりました。
きっとさんは、こんな気弱な事を口にする自分を見下げ果ててしまった事でしょう。
何故そんな頼りない事を言うのかと叱咤されることを覚悟の上で、僕は正直なところを吐露したのです。
格好などつけても、どうにもならないと判っていましたから。
其処までの状況なのだと、さんに伝えなければならなかったのです。

僕は勇気を奮い立たせて、再び顔を上げました。
何を言われても、どんな目を向けられてもいい。けれどもう一度、さんに言わなくてはなりませんでした。
彼女に、生きる事を約束してもらわなくてはならなかったのです。
僕はあなたを見下ろし、口を開こうとして……けれどそのまま、言葉を失いました。

さんは今にも立ち上がりそうな様子でこちらを見上げていました。
その表情に僕はハッとします。
不思議と穏やかなのに、そこには力強い笑みがあったのです。
今までの数週間の中で見てきたどの笑顔とも違う、初めて見る笑み方。
けれど僕は何故か、それを見た瞬間ゾッとしたのです。本当に、どうしてかは判りませんが。
「荒井くん」、と音を紡ぐ口の動きを、僕は何処か呆然とした思いで見守ります。


「大丈夫だよ。死なないよ、わたしも、荒井くんも」
「――随分と長いお喋りだったようだが、お別れは済んだのか荒井」


声は、無造作に投げ掛けられました。
反射的にポケットに忍ばせてあった彫刻刀を抜き、利き手に構えながら振り向きます。
声の主である日野さんは、閉め切っていた筈の入口のドアにその長身をもたれさせながら此方を眺めていました。
顔は薄く笑っていましたが、まったく目は無表情です。
もう言い逃れなど通用しないでしょう、彼はきっと最初からこうなる事を知っていたのです。
ギリ、と奥歯を噛み締めながら、僕はさんがあまり日野さんの視界に入らないように立ちはだかります。
おどけたようにクラブのリーダーは両手を上げる真似をしました。


「おいおい。相手が違うだろう、荒井? お前の相手はその実習生じゃなかったのか? 随分と世話になったって言ってただろうが」
「ええ。その通りですよ日野様。……わかっているのでしょう?」


言うと、向こうは上げていた手と手をそのまま 『 やれやれ 』 というように投げ出しました。


「荒井。お前の事は随分買っていたんだがな。俺達三年が卒業したら、次のリーダーはお前に引き継ごうかとも思ってたんだ。細田じゃこのクラブを引っ張っていくには荷が重すぎる。福沢は素質自体は悪くないが、まだまだ駆け出しだ。これから新しいメンバーを引き入れるにしても、経験は今在籍しているお前たちにどうしても劣る。お前なら、その気になれば先導者として充分やっていけるんじゃないかと思うんだ。……どうだ、今ならまだ間に合うぜ? 今すぐ此処でその女を殺せば、俺は何も見なかった事にするよ」
「……冗談を。僕も裏切り者として、始末するのでしょう?」
「うーん。俺って、リーダーなのに信用されてないのな」
「いいえ、リーダーとしての信用があるからこそですよ」


日野様はこのクラブの代表にふさわしい人物ですからね。
精一杯の皮肉を込めて言うと、彼は肩をすくめて形だけ笑いました。


「そうか、残念だよ。で、どうする? その彫刻刀で俺と勝負でもするつもりか? まあ相手になってやらないでもないが、他の奴らに気付かれないうちに終わらせないとな。複数になればお前も不利だろう」


眼鏡の奥の眼がさえざえと冷たく光っています。
一対一でも、経験や体格差を考えれば圧倒的に向こうが優勢なのは明白でした。
丸腰のように見えますが、何処に何を隠し持っているかは僕も把握しきれません。
状況は絶望的でした、けれど、絶対に負けるわけにはいかないのです。
僕はさんの事を思いました。背後できっと、目の前の事態に怯えているだろうその人の事を。
僕は、絶対に負けない。

駆け出して手元の刃を突き出すまで、何秒と掛かりませんでした。
すいと身をかわす日野さんへ第二撃を見舞おうとして、不意に両足が浮くような感覚を覚えます。
足元を掬われた事に直ぐ気付いたものの、体勢を崩しそのまま転倒するのは避けられません。
僕は咄嗟に刃を手放し、目の前の白い制服のシャツを掴もうとしました。
けれど其れも振り払われ、為す術もなく冷たいリノリウムの床に叩き付けられます。
傍にあった部室内の机に身体がぶつかり、耳障りな金属音を立てました。日野さんは直ぐにでも横たわる僕を攻撃してくるでしょう。
案の定、背に重い衝撃がありました。
思わず肺の空気を吐き出さずにはいられません。そのままグッと重みが掛かる事から踏み付けられている事が知れました。


「なあ、荒井。……実はな、今回の獲物が結構頑張ってるんだ。まだゲームは始まったばかりだが、風間がやられてな。ああ、お前はあいつの事が好きじゃないんだったか。見せてやりたかったよ、あの無様な姿をな。まあまぐれかもしれないが、メンバーがこれ以上減っちまうのは本当に残念だよ」
「……僕を、生かしておく気など、さらさら無いのでしょう」
「そう睨むなよ。お前は今までよくやってくれた、だから礼は尽くそうと思ってる。心配するな、そっちの女もお前も苦しまないよう殺して―――――」


日野さんは言葉を切りました。
転倒した時に、僕が予備の彫刻刀を胸ポケットから抜き出しておいたのを気付かれなかったのは幸運以外の何物でもなかったのです。
隙を見て、委細構わず振った刃が確かな手応えを伝えてきました。
一瞬遅れてグッと向こうが呻いた瞬間、僕は身を捻って起き上がりそのまま体当たりします。
もんどり打って床に二人で転がったので、机や椅子がまた不快な音を立てましたがそれどころではありません。
僕は馬乗りになり、間髪入れずに彫刻刀を振り下ろす、


「……っ」


筈だったのです。
腹部に膝を入れられたと気付くまで随分と長い時間が掛かったようにも思えます(実際には何秒もなかったのかもしれませんが)。
手から力が抜け、刃が僕の手から離れます。
日野さんは再び膝蹴りを見舞い、僕は身を守る事すらままならなくなりました。
そのまま両肩を掴まれ床に倒された僕は、血走った眼がギラギラと見下しているのを目の当たりにしたのです。

……駄目だった。僕は、さんを守る事が出来なかった。

そう思うと冷たいものを全身に浴びせかけられたようでした。夢の世界とはいえ、僕はあなたを最後まで守りたかったのに。
悲しみが押し寄せてきて、今にも涙が零れ落ちそうでした。
突然日野さんは狂ったかのように馬鹿笑いをし始めました。
心底おかしいというように身を捩らせてゲラゲラと声を上げて笑い、そしてふと真顔に戻ったのです。


「本当によく頑張ったよ、お前は。俺に傷をつけるなんてな。だが其れももうお終いだ」


いつの間にか、僕の落とした彫刻刀が彼の手の中にあります。
鈍い銀色が蛍光灯の光を反射させていて、直ぐにその刃は僕の胸に突き刺さるのだとわかりました。
僕は目を瞑りながら、何かの奇跡が重なってさんが生き残ってくれる事を祈り、来るであろう痛みを待ち続けます。

……どのくらい経ったでしょうか。
僕はふと、奇異を感じました。
僕の見る夢は五感を伴う事が多いのです。痛みだってそれなりに感じない事もないというのに、いつまで経っても何も起こりません。
日野さんはいつまで焦らすつもりなのでしょうか、僕はつい、両の目を開けてしまったのです。

僕は、その光景を理解するのに相当の時間を要さなくてはなりませんでした。
日野さんはぐったりと力なく頭を垂れ、ピクリとも動こうとはしませんでした。
白シャツの首元を掴まれているからやっと半身を起していられる、といった様子です。
その掴んでいる誰かの手、そこから腕、首へと辿っていけば、何事もなかったかのように立っているさんが僕の視界に入るのです。
拘束されて動けない筈のあなたが。


「……さん……?」
「荒井くん。大丈夫?」


その人はポイと日野さんから手を離し此方に屈み込みます。
音を立てて崩れ落ちたクラブのリーダーの身体は、やはり身動き一つせずまるでマネキン人形か何かのようでした。
僕は口をぱくぱくさせましたが、意味ある言葉を発する事が出来ません。
何か言いたかったのに、何を言うべきなのか見当が全くつかないのです。
頑張ったね、お疲れさま。
そんな声が自分の耳を通り抜けていくのを呆然と感じながら、さんが僕の頭上に手を伸ばすのを見ていました。
僕を子供扱いする時いつもするように撫でられるのだろうと思っていると、あなたはふと手を止め、苦笑いするような表情を作るとそのまま引っ込めてしまったのです。
それを誤魔化すように言いました。


「言ったよね、死なないって。わたしも、荒井くんも」と。


まだ何処かぽかんとしていたままの僕を覗き込むと、さんは嗤いました。
それはさっき僕が感じた、ゾッとするような得体の知れない感覚を呼び起こします。
自らの背に何かいやなものが這い上がってくるような、そんなような、感覚。
その間にも貴方はそのまま大きく一つ息をつくと、ぽつりと、独り言のように口にしたのです。


「……この学校にも、そういうクラブがあったなんて吃驚したな」


この学校にも――!
僕は耳を疑いました。それが何を意味するのか、僕はそれを、直ぐに理解してしまったのです。
背筋を冷たい汗が伝っていきます。馬鹿な。そんな馬鹿な……。
無意識に首を振りました。そんな僕の前で、さんは朗々と続けます。


「殺人クラブか。……意外とこういう活動してる人達って、他の学校にもいるのかもしれないね。今まであんまり考えた事なかったんだけど」


僕はぐらぐらと眩暈を感じました。
戦慄が自分を呑み込んでいきます。目を瞑り耳を塞いでしまいたかった。
今目の前に存在するその人が発する言葉、そのひとつひとつを受け入れることがどうしても出来ず、さっき日野さんと対峙した時でさえ震えなかった身体が、今になってガクガクと揺れを刻み始めたのです。


「それにしても、顔も見られている事だしどうにかしないとね。これから一仕事か、……明日一番の新幹線に間に合うようにしなきゃいけないし、急がないと」


さんが僕達側の人間であるなんて事はあってはならない。
あなたは、そんな存在になってはいけない。
それが例え、この壊れた夢の世界であっても、あなたはその手を汚してはいけない。
それなのにどうして、どうして、どうして、どうして──。


「もうすっかり夜中か。……早く帰りたいところだけど、いろいろする事がありそうだな。荒井くん、手伝ってくれる?」
さん……っ」
「うん? 何?」


極めていつものペースのその人を遮るように、僕は声を上げていました。
答えの判っている質問をするのに、この時程違う返答を望んだことは今までにありません。喘ぐように僕は、息を繋ぎました。


「あなたは……まさか……」


最後まで言う事など出来ませんでした。
言葉が、喉の奥からつかえて出てこないのです。
さんは震える僕を見やり、少し哀しそうな顔をしました。それでも、あなたは嘘などついてはくれませんでした。


「……荒井くん、ごめんね。荒井くんは卑怯なんかじゃないよ、ちゃんとわたしにこのクラブの事を教えてくれた。わたしだって、同じ事を隠したままだったのに」


何かが音を立てて崩れていくような気がしました。
彼女の答えは、あっさりと僕の受け入れがたい想像を肯定したのです。
……ああ、そうか。と不意に思います。
この世界の歪みは、僕たちだけではなく貴方にまで及んでしまったのだというのに、僕は今になってようやく気付いたのです。
この世界の僕が僕ではないように、あなたも、あなた自身ではない。

けれど、それでも目の前の人はさんなのです。
僕は床に転がったままの日野さんを一瞥します。既に事切れているのはわかっていました。
外傷も特に見当たらずどうやったのかは判りませんでしたが、あの日野さんにさえ苦労せず勝つ事の出来る力量を備えているのなら、僕など必要はありません。
寧ろ、足手まといになる可能性すらあるでしょう。

そして僕は、この夢の世界のあなたを、さんでないあなたを見ている事が辛い。

日野さんの手から転がった刃を拾い上げると、僕は逆手に構えました。
さんは一瞬きょとんとしたように、そして直ぐに、僕の意図に気付いたようで真面目な顔になりました。


「……どうして? 荒井くん」
「この夢が、狂っているからです」


僕は言いました。
窓の外から、虫の鳴く音が静かに聞こえてくる事にようやく気付きます。
夏の夜が、ゆるゆると学校の中を流れていきます。まるで此処は正常な世界なのではないかと思える程の、とても静かな時間でした。


さん。あなたなら、この世界を生き延びられるでしょう。どうか最後まで、ご無事で……」
「荒井くんは、一緒に来ないの?」
「僕には、この世界は辛いのです」
「……そっか」


あなたは顔を伏せて、僅かに沈黙しました。
ほんの少しの間を置いて、言葉が繋がります。


「──荒井くん」
「はい」
「わたしが、荒井くんの望んだわたしじゃなくて、ごめんね」


僕は首を何度も振りました。
あなたは悪くありません。決して、夢の中のさんに非があるわけではないのです。
僕は噴き出してきそうになる涙を堪えながら、自分の弱さを呪いました。


さん、……最後まであなたを見守る勇気を持てなくて、ごめんなさい……っ」


震える声で詫びた僕に、その人は微かに笑んで首を振ります。
僕は笑み返すと、手の中の彫刻刀を自らの胸に突き立てました。
あまり血は飛びませんでしたが、一撃ではとても足りず、何度も刃を振るううちに辺りに細かな飛沫が散ります。
ゴボゴボと口から血が溢れ出しても、さんは静かに僕を見守っていてくれました。
やがて視界が反転し、床に倒れ込んだ時にも僕の上半身を抱えてくれさえしたのです。僕は、そっと微笑みました。


さん……」
「うん?」
「すぐ、会いに行きますよ。本当の世界の、あなたに」
「うん。……待ってるよ」


さんも、いつもの笑みを湛えてくれました。
僕は薄れていく意識の中でこの夢の事を思います。
僕が目覚めたあとのこの世界はどうなるのだろう、この世界のさんはどうなるのだろう。
目の前で笑うあなたはこの世界の僕を受け入れてくれたのに、僕はそうする事が出来なかった。
その事を申し訳なく思うということ、最後まで傍に居てくれた事に感謝しているということ。
ぐるぐると回る想いを胸にしながら暗転していく世界に別れを告げようとした時、最後のさんの声が降ります。


「向こうの世界のわたしに、よろしく」


急速に冷えていく自分の身体、そのほとんどに感覚は残されていませんでした。
けれど、自分の血に塗れた唇に感じたあたたかな熱だけは感じ取る事が出来ました。
暗闇に沈んだ視界、もう何も見えない筈の僕の目に、この世界で生き残るために歩き始めたあなたの後ろ姿が浮かびます。
さんが去った後の新聞部の部室では、魂のない僕と日野さんの身体だけが残された空間の中、夜の風がカーテンをいつまでも翻し続けていました。
いつまでも、ただ、緩やかに。






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